長岡FP事務所は、銀座と青森の2カ所を拠点にしています。極端なふたつの場所にあると驚かれる方が非常に多くいらっしゃいます。
「東京だけで十分商売になるでしょうに、なぜ、失礼ながら所得の低い青森でも相談会をやっているんですか?」とよく質問されます。
答えは、こうです。
地方都市、特に青森県のような極端な「田舎」で起きていることが、今後日本全国の地方都市で起こるからです。それはもちろん、ネガティブな意味合いで、です。
東京からでは分からないことが、田舎にはたくさんあります。
30年も底に沈んだままの日本経済では、地方の生活は大変厳しいです。
「世帯年収が390万円で、住宅ローンの残債が2,300万円ある40代夫婦」
「二度の離婚で養育費を払えず給料を差し押さえられる30歳男性」
「消費者金融の借入歴が数社あり、その全てで滞納している」
「住宅ローンの審査で2割がNGになるローコストハウスメーカー」
「勤務先に退職金がなく、仕事に自分の携帯電話を使うのが当たり前」
こんな話をすると、まるで話を盛っているかのように言われがちですが、現実の青森県では珍しくない光景です。日本経済で取り残されているわけではなく、このような状況がきっと日本全国の地方都市でも今後起こるのだと私は思っています。
そんな青森県で、少し気になる現象が起きています。もしかしたら誰も気にしていないかもしれませんが、これからの「さらなる貧しさ」に地続きになる現象かもしれません。
それは、こんな光景です。
老舗喫茶店や老舗ゲームセンターの閉店に、人が群がる光景
青森県の弘前市では、近年、老舗の喫茶店やゲームセンター、大型ショッピングセンターの閉店が相次いでいます。
経営者の高齢化や、時代の変化で避けられないことなのですが、弘前市では独特の光景が見られるのです。
それは、閉店のニュースが流れると、どこからともなく大勢の人が店に群がったり写真を撮ったりする光景です。そしてSNSでは思い出話で盛り上がったり、「エモい写真」の展覧会が相次ぐわけです。閉店当日になると店の前に人だかりができ、ありがとーありがとーの大合唱で。まるで感動のフィナーレに酔いしれているようです。
じゃあ、あなたたちはその店を支えるためにそこで買い物をしていたのか?というと、していないのです。でも閉店となるとエモさを求めて群がってしまう。閉店という経営者の苦渋の決断を、無関係な人達が思い出話を共有して仲間意識を盛り上げるダシにしているのでは?とさえ感じてしまいます。
これ、同じ青森県でも八戸市という太平洋側の産業都市では、全く見られない光景なのです。すぐ近くの街、青森市でもまず見かけません。
比較的裕福な街では、老舗の店を名残惜しむのは常連客だけです。実際にそこで最後に一杯をやって送り出すだけです。
ところが、産業がない街ではこれが起きます。産業が衰退し、文化や過去の遺産だけが取り残された城下町・旧宿場町・旧炭鉱都市に共通の症状のようです。
青森県で最も美しい町、しかし・・・
青森県弘前市は、県内で最も美しい町だと私は思っています。私自身、弘前市に3年間住んでいたことがあります。
春の弘前公園は、日本で桜を見るならここだと言い切っていい場所です。堀に散った花びらが水面を埋めて、城と岩木山が同じ画角に入る。あれに匹敵する景色は全国を探しても多くありません。
夏は弘前ねぷたが静々と流れ、秋はりんご畑が色づき、冬は雪をかぶった洋館が並びます。旧第五十九銀行本店、藤田記念庭園。明治から大正にかけて建てられた洋館が、これほどまとまって残っている地方都市は珍しいものです。
弘前藩にも物語性があります。2代藩主津軽信枚(のぶひら)の側室は、石田三成の三女辰姫です。徳川家はこの日本のはずれで、石田家の末裔が生き延びることを黙認していたようです。石田三成の次男である重成も、佐和山城の落城を知ると大阪から逃げ延び、弘前市の近くにある現・板柳町に隠棲したといいます。杉山姓を名乗り、後に弘前藩の家老になっています。
外様大名であった津軽家のエピソードとしては、なかなか深い物語を感じます。
現在に入ると、老舗喫茶店、老舗の和菓子店、津軽三味線、りんご、岩木山、少し郊外に行けば豊富な温泉。弘前大学があり、藩政期からの城下町として蓄えてきた品格がどこかに漂います。
青森県内で文化という言葉が最もふさわしいのは、間違いなく弘前市でしょう。
しかし、言い方を変えると、文化しかないわけです。生産がない。新しい価値を生み出せず、文化という雰囲気にすがってしまう。
なぜ閉店する店に人が群がり写真を撮るのか?
先述した、老舗のお店の閉店に人が群がって写真を撮る現象。ここにつながっていきます。
これは単なるもの好きというだけでは説明できないようなのです。
惜しまれているのは店ではなく、「文化」を装った残酷物語
集まる人たちが惜しんでいるのは、実は店そのものではありません。
自分が登場する、大きな村の共通の物語です。
その物語は「文化っぽい雰囲気」に転換されています。
その物語に登場する店が看板を下ろすと聞いた瞬間にだけ、人々に同じような反応が起きるのです。文化を装った物語を語り、共有して、気持ちよくなってしまう。
それまではあるのが当たり前の記号でしかないので普段は通わない。通ってしまうと、記憶の中の店ではなく、時代とともに値上げをして、店主が老いて、客が減った現在の店になってしまう。リアルタイムの店は見たくない。
記憶を物語化したい人たちにとって、実際に足を運ぶことは記憶を壊す行為になります。ノスタルジーは現在進行形ではダメなのです。行かないことによって思い出が守られるという、逆立ちした関係なのです。
そして残酷な事実として、閉店が決まった後には、もうこれでおしまいなのだと言って人が群がってしまう。閉店するのは残念ではないのでしょう。完全に思い出に閉じてしまうのでむしろ安堵なのかもしれません。だから一眼レフで撮影をし、Instagramにキャプションをつけて「エモ」を投稿し悦に入る。そのエモが地元の人に共有されるので自尊心も満たせる。
最後の最後まで別にお金は落とさない。ただ乗りなのです。
でも店の経営者は、単純に思い出でダシにされてしまっただけという残酷さが残ります。「普段来なかった人たちが一斉に懐かしむ光景」は経営者にとっては、残酷以外の何物でもありません。その人たちの多くは、日常の買い物にその店を使っていないのですから。「そんなに名残惜しいなら、潰れる前に買い物してくれよ」と思うでしょう。
私の感覚ではとてもそのような残酷なことはできません。たとえ懐かしい店であっても、自分のノスタルジーで消費するのはあまりにも失礼すぎるからです。恐怖すら感じる光景です。
物語に依存して衰退していく街
全国の城下町の中には、経済的に衰退している場所がめずらしくありません。
名古屋城、姫路城、旧江戸城など、大都市の中にある城の方が稀です。多くは地方の少し大きな都市にあります。弘前城がその典型でしょう。
弘前市の人口は約16万人と小規模です。主な産業は農業。商業は活発ではなく、大きく成長した企業が極端に少ないのが特徴です。
これはマーケットの小ささと、所得の低さが影響しているでしょう。
弘前市は若者が地元で就職するという道が極端に狭く、低所得を覚悟しなければなりません。大学進学などで地元を離れ、遠くで就職する割合の方が多いのが現実。産業が育たず、人材の流出も極端に多いので、さらに経済は低迷するというまさに負のループです。
そのような城下町は、「物語の保存」に依存するようになります。つまり「文化っぽい空気」に頼るのです。弘前市にあるのは、経済やお金ではありません。文化だけです。しかし、それは京都などのように外からお金を手繰り寄せることができる明確な文化ではなく、何となく文化っぽい、お洒落っぽいというだけの空気感でしかありません。
言い方は悪いのですが、文化だけしかない貧しい町では、カメラに凝る若者が増えます。新しいものを買ったらお洒落と思う人が増えます。あるいは高級輸入車を買う人、記号強めの高級ブランドの服を着る人、流行りのものにすぐ飛びつく人も増えます。
「分かっている」「人とは違う」というのが「お洒落」だと感じてしまうわけです。そこに生産はありません。お金を生むビジネスに繋がることもありません。
老舗の店の閉店に群がるのは、「文化を分かっている俺、わたし」が、カメラで撮影して「Instagramに投稿するイケてる自分」を、「人に見てもらいたい」からです。完全に肥大化した自意識が迷子になっています。それは文化っぽい空気であって、文化でないことが多い。まさにエモなのです。
でも衰退する街では、それをするしか自分らしさを表現できないのかもしれません。
弘前市だけでなく、小樽市や函館市などもまた、同じような状況にあるといわれます。住民自身が価値とお金を生み出す「当事者」になれず、ただで風景を消費するだけの傍観者になってしまう。
自分らしさを表現するのが「かっこつけ」しかない
ここから家計の話になります。
経済的に衰退している街では、実は輸入車も増えます。お金があるからではありません。産業がないからです。
例えば名古屋駅の前の駐車場に入ると、高級車が見飽きるほど停まっています。実体経済が強すぎる街だもんなと納得するのですが、それと近い割合で、衰退した町に高級車が走っています。
私は弘前市でドイツ車ディーラーの店長をしていましたが、弘前市でのドイツ車の売れ方は大きな特徴がありました。
車が好きだから買うという人が極端に少ないのです。多くは、「誰かと違う自分」を求めて、分不相応な「お洒落な」買い物をしているつもりというのが実態です。つまり、見栄です。これを津軽弁で「えふりこぎ」と呼びます。
しかも多くは所得が高くありません。可処分所得の多くを見栄に費やしているのです。
なぜそんなことが起きるのか?それは、自分の現在地を測る物差しがないからです。子どもだけでなく、大人になっても持てないままなのです。
勤務先、年収、学歴、職種、キャリア、自信。多くの大人が頑張って手に入れようとする「物差し」が、産業がない街ではめったに手に入りません。多くは「田舎のおじさん、おばさん」で完結してしまうのです。
若作りをして、郊外のショッピングセンターに家族で行く、どこにでもいるおじさんとおばさんです。
モブになるのを極端に恐れる人達がすがるのは、乗るもの、身につけるものといった目に見える記号です。物差しで自分の現在地を目視できない社会ほど、消費で差をつけるしかなくなります。所得が低いはずの弘前市でドイツ車が目立つという現象は、こうして起きるのです。
その差をつける行為がまた、「分かっている特別な自分」という他人からの目線を期待しているのです。閉店する店に群がる人の心理と地続きです。
残念ながらこの見栄の記号への消費は、家計を一気に貧困に落とします。他の都市と違い、95%の人がフルローンで輸入車を買う状態では、まともな家計になるはずがありません。
見栄で消費を繰り返すと、必ず貧しくなっていく
この記号消費は家計を貧しくしていきます。
文化しかない町が貧しくなり続ける理由の一つは、可処分所得のうち「見栄」に消える割合が高いことです。
車のローン、身なり、付き合いの費用。何か理由をつける買い物の繰り返し。20年もたてば数千万円の差になります。自尊心の維持のために消えるお金が多すぎると、当然ながら買える家の質も低くなります。
弘前市では大手メーカーよりも、零細規模の工務店で家を建てる人が多く、平均的な予算額も低め。つまりローコスト住宅が多いのです。家で差がつかない分、高級ミニバンを買って家の前に停める光景も特徴です。
私が普段関わっている、比較的裕福な世帯では絶対にやらない買い物の仕方です。
自分だけのオリジナルな人生を作ろう
別に人と同じものを持っていてもいいのです。
他人と変わらない生活をしていてもいいのです。仕方ありません。所得が多くないのですから。
自分の座標が分からないからと言って、人と違う新しいモノを買って見せびらかしても、決してお洒落とは言えません。単なる消費者です。消費というより浪費でしょう。ローンを抱えているのにすごい人とは誰も思ってくれず、無駄遣いが好きな、貯金が無さそうな人と思われるのがせいぜいです。
本当の意味で他人と比較しない自分を手に入れないと、いつまでも経っても「えふりこぎ」にすがることになってしまいます。本当の意味で他人との比較が要らない自分とは、どんな状態でしょうか。
それは「学び」だと私は思います。新しい知識を得ること、新しい技術を身につけること、です。学びは自分を健全に成長させ、オリジナルな人格を手に入れる助けになってくれます。そして自分でいることに揺るぎない自信を持たせてくれます。
FPに相談する人が極端に少ないのも弘前市です。家計を見直しお金を増やすという行為は地味過ぎて不安になるらしいのです。学びは他人に見せびらかすことができませんから。
でもそれが自分らしさの近道です。お金の勉強をしましょう。地味な学びが、自分を不安から解放してくれるはずです。
弘前市という文化のある美しい都市に本当の豊かさが実現するためには、お金の勉強を地味に続けるということだと私は思っています。
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